Amezariz Blog

アイドルプロジェクト「アメザリズ」の公式ブログです。

好き/嫌いというコード

今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。大阪のノリ伝わらずアメザリズで浮きがち。浮いてるから気持ちも沈まないけどな。憂き目であろうがウッキウキ。スベってるとか言うな。浮いてるから床との摩擦が起こらないんすわ。人との摩擦は生じてるけどな!

さてこの記事では、ザリガニョンズのデビュー曲『DEATH!DEATH!です。』のキーワードの一つである「嫌い」について考えてみます。ここで書くといわゆる「公式見解」みたいになるけど、あくまでもおにぎり(光)が勝手に言ってるだけです。また、仮に公式見解であろうが「公式が勝手に言ってるだけ」です。バルトも言ってる。知らんけど。

好き/嫌い

日頃、素朴に口にする「好き」と「嫌い」ですが、これは特定の観点からなされる二値論理的な対象への評価です。同じ対象につき、[好き/嫌い] なり[真/偽]なり[善/悪]なり[美/醜]なり、それぞれの観点から互いに一応の独立性を以て判断しうるなかの一つの観点。

「好きの反対は無関心」なんて言葉がありますが、これは[好き/嫌い]のコードでその対象を評価するための(主観的な)前提条件が満たされていないことを示すものです。ある観点における評価がなされる以前に、その観点から評価をすべきか、並びにそのための一定の資格を対象が持っているかの先決問題があるということを確認するものでしょう。[好き/嫌い]の観点に立つならば「好き」または「嫌い」のどちらかの結論しか出てきません。「好きの反対」というときの対称軸の取り方の問題です。

このように[好き/嫌い]の評価基準に則る場合には、「好き」の否定は「嫌い」ですし、「嫌い」の否定は「好き」なわけです。「好きか嫌いかでいえば~」ってやつ。それを言ってしまった後には「どちらでもない」とは言えません。対象につきいずれかの結論を下さなければならない。

「お前らが大嫌いだ」

さて、以上を踏まえて、『DEATH!DEATH!です。』のパンチライン、「お前らが大嫌いだ」の含意を考えてみましょう。ここに現れる「大嫌い」という著しさを表す程度表現を伴う「嫌い」が使われていることは注目に値します。いきなり突きつけられる[好き/嫌い]のコードにおける断定的かつ否定的な結論。「お前ら」が誰かは知らん。お前らで考えてくれ。

ここで思い起こしていただきたいのは、「嫌い」で否定されているのは「好き」であることという排中律的関係である。では、「好き」を結論として得るためには何が必要か?「嫌い」の否定である。「好き」の二重否定(「好き」の否定である「嫌い」の否定)によって得られるのが「好き」なのである。

さらに、[好き/嫌い]は本来デジタルな見方、つまり程度を問題としない尺度でしょう。ところが、そのものさしに強烈な肯定という極が存在するならば、同時に反対側の強烈な否定という極がなければなりません(アナログ)。個々の評価対象から独立したものさしにおいて、「好き」と「嫌い」は対称的かつ相補的関係に立つからです。わざわざ程度表現という「異物」を混入させなければ評価にとって不十分となるからこそ「大好き」と「大嫌い」が同時に導入されるわけです。数直線は正の方向にも不の方向にも伸びているものですからね。

お前らが大好きだ?

話を戻しましょう。「お前らが大嫌いだ」には「大嫌い」という結論が含まれ、そこの裏側には評価基準に「大好き」という目盛りが存在することが示唆されている。さてさて、この「大好き」に位置すると評価される具体的対象が存在しうるのか、存在しうるとすればそれが何、あるいは誰なのか。その答えが明かされるかどうかはわかりませんが、もしかしたらこれを読んでくださっているお前らかもしれませんね。ザリガニョンズメンバーとお前らとの浮いた話を聞く日も近いか?来なかったら浮かばれないねぇ。