Amezariz Blog

アイドルプロジェクト「アメザリズ」の公式ブログです。

メタバースと歌詞考察

今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。衒学的な文章書きがち。衒学部浅学科首席卒業。これまでの長いダラダラした記事は、牽強付会の手口の例としてお楽しみいただけたなら幸いです。世の中には悪い大人もいるもんですねえ。

もう一つの世界?

 さて、私のような悪い大人もいるこの世の話はさておき、最近Vtuberが盛んに配信をしているストグラ等をみていると、画面のなかにはもう一つの世界があるようにも思えてきます。これはVアイドルザリガニョンズを抱える我々としても見逃せません。

 こうした仮想空間において、オンライン上でリアルタイムのコミュニケーションを行い、そのコミュニケーションでは画面のこちら側、つまり実生活の自分のペルソナとは無関係の役割をロールプレイすることができます。それゆえ、互いに実生活とは異なる人格としてコミュニケーションを行い、したがって実生活とは異なる関係によってのみ構築される社会がそこには存在しています。

 こうして、仮想空間において同じゲームのプレイヤー同士という関係ではなくその仮想空間そのものに存在するキャラクター同士という関係において生活を送ることが可能となりつつある。「メタバース」という用語の統一された定義は未だ形成されてはいないでしょう。しかし、こうした意識において運用されているものをこの記事ではメタバースと呼ぶことにします。

メタバースで「なりたい誰か」に?

 さて、こうしたメタバースの住人には、それぞれ性別や容姿をはじめとした様々な設定を任意に行うことができます。この点、「生まれ」を選べないこちらの世界とは大きく異なるといえるでしょう。メタバースでは、「もしも自分がこんな見た目だったら」や「もしも自分がこの性別だったら」を実現できる。もっと違う設定で、もっと違う関係で出会える世界線を選べるわけです。

 しかし、ここにこそメタバースとこちらの世界との大きな接点があります。「あちらの世界で女性(男性)として生まれていたらやっていたことをメタバースではやろう!」などの意識は、むしろこちらの世界での常識や偏見、先入観のメタバースへの密輸入のルートになってしまうからです。「この世界において誰になりたいか?」という問いへの答えを、もう一つの世界であるメタバースにおけるキャラクター設定に反映するわけですね。

私とワタシ

 さてここで、この世界での自己を「私」とし、メタバースでの自己を「ワタシ」と呼ぶことにします。そうすると、メタバースで生まれ、関係を結ぶプロセスは、「私はワタシになりたい。だからメタバースでワタシを作る。ワタシは他の人たちのワタシと関係を結ぶ。ただし、それは私とは無縁の世界の出来事だ」というように表現できます。

 私がなりたかったもの、ワタシはたしかに存在しますが、私とワタシとの間には等号が成立しないわけです。それがメタバース。なりたいものにはなれなかった私は、画面の前に佇んでいるだけ。私は生きているから物を食べなければならないし、トイレにも行かなければならない。目の前の機械の電源を落としてしまえば後に残るのは私だけです。まあその私だっていつかこの世から消えるわけですがね。

私は何者にもなれない

 以上のように、ワタシをメタバースでやってみたところで、私は引き続きどうしようもなく私なわけですね。メタバースでどれだけ何をしようが、私は私で、私以外の何者にもなれない

 翻って考えると、メタバースにおける設定のための「この世界において誰になりたいか?」の問いから間違っていたんですね。この世界では私は一生私でしかありえません。「どんな私でありたいか?」をメタバースのためではなく、この世界で生きるためにこそ問わなければならなかったんですねえ。

 生まれを選べないこの世界で、生き方ぐらいは選ばせてもらいましょう。生まれた目的なんてものは存在しないか、存在したとしてもわかりません。だからこそ、その目的を自分ならではのやり方で後付け、牽強付会してみようって話ですよ。その手口はもう見せてきましたよね。

何者にもなれないことそろそろ認めたらどうだ

 ところで、以上の話、わりと良い話だと思いませんか?実は今までの文章、ザリガニョンズのデビュー曲『DEATH!DEATH!です。』の歌詞の一部の考察です。その部分をこっそり引用しておきます。

何者にもなれないことそろそろ認めたらどうだ……(中略)……見せてよお前だけのザリガニ

この歌詞なかなか良いですねぇ。気になった方は是非、デビューの日をお楽しみに!はい。今回の牽強付会終わり!