Amezariz Blog

アイドルプロジェクト「アメザリズ」の公式ブログです。

フェイクソングとリアルソング

今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。若さのなか不確かな迷いに陥りがち。導いてくれるのは遠くから聴こえる音楽かもしれないので耳を澄ませておくことにしましょう。

はじめに

 私が前回書いたのは、フェイクソングに騙されるなという趣旨の記事でした。リリカル三百代言許すまじ。そんな私が、今回は「歌とは良いものだ」という話をします。矛盾?違うね。でも仮に自己矛盾したって気にしないのが何者でもない俺の特権なのさ。

 前回でいうところのフェイクソングは、いわば宛先を不特定多数にするものでした。すなわち、それを聴く一人ひとり、具体的人物に対してメッセージがあるわけではない。さらにいえば、作詞家からすればそれを歌うのがそのアーティストである必要すらないような歌でしょう。

 これに対し、今回扱うのは、それぞれの「私」から「あなた」へ伝えたいことがあるときに歌われるものです。すなわち、具体的個人から具体的個人に対するメッセージが歌詞に込められているか、歌われる際に込められる歌。その特異性を、言語の他者性普遍化の機能の観点から説明します。

一般論

 まずは前提として、言語の他者性と普遍化の機能についての一般論をお話しましょう。

他者性

 我々は、言語に遅れてやってきた存在です。生まれたときには、既に周りで何らかの言葉が話され、後天的に、しかし気がつくと「そういうものか」と言語を一応は適切なかたちで運用できるようになっている。言い換えれば、我々一人ひとりの用いることのできる言語は、我々の選択に先立ち存在し、したがって我々によるそれに対する扱いをも完全にとは言わずとも強く規定している

 そこで、言語による思考はそもそも、ある意味では環境からの「借り物」によって成り立つものといえるでしょう。絶対的他者としての(言語)慣習に投げ込まれた我々が、そこで運用する言語はどうしても自己にとって外在的なものにならざるをえない

普遍化の機能

 このような言語の他者性と表裏一体となるのが、普遍化の機能です。すなわち、誰しもにとって外在的な借り物にすぎない言語は、話者となる各人の具体的在り方を捨象したかたちでしか表現されえない

 たしかに、語のレベルで「思い入れ」が各人にあり、その思い入れを込めて表現される語は存在するでしょう(拙稿参照)。しかし、その語に対する思い入れ自体は聴き手に共有されていないのが普通です。さらに、もしも自身の意図をより正確に伝達しようとするならば、また言語のプールから言葉を借りてこなければならない。さらにその意図を……以下、繰り返しです。(コミュニケーションが「意味」自体だけで成り立つわけではないし、「意味」もまた生活形式が異なれば異なることに注意。)

 このように、我々は、言語の意味を通じてしか意図を表明できないし、そこで用いられる個々の言葉の意味それ自体は、「あなた」用ではなく、「すべての人」用に拵えられたものでしかないわけです。したがって、言語によって表現されるものは普遍的なものとなります。

あてはめ

 いよいよフェイクとリアルとの違いをはっきりさせるときがきました。

他者性

 第一に、他者性の観点から。フェイクソングもリアルソングも同じく他者としての言語に依存しています。しかし、「借り物」である言葉を自身のものとして、あるいは自身の責任において使用しているか否かで区別できます。

 すなわち、フェイクソングは自身(作詞家、歌手)がその言葉に対し自身の在り方を反映する「思い入れ」を込めたりはしません。誰が歌っても良い。そこに言葉の意味以上の意図はありません。聴き手の在り方への想像もなければ、自身の在り方に対する反省もない。借り物を見やすいように並べ直しただけです。ご自由にお取りください、と。その後捨てようが何されようがどうでもよいのでしょう。他人事です。

 これに対し、リアルソングは、言語のプールから言葉を借りつつ、「それでもこれが、他でもない自分からのメッセージだ」というメタメッセージを伴います。ラブレターの差出人の欄にちゃんと自分の名前を書くように、ひっそりと、しかし確かに書き込まれている。

普遍化の機能

 第二に、普遍化の機能の観点から。これは半ば話し終えています。フェイクソングは、意味以上の意図を込めない。だから聴き手の思い入れという特殊性に意味を超えるものの全てを委ねる。どう解釈されようがお金さえ払ってくれれば大満足。

 これに対し、リアルソングは、自身の意図が聴き手にも伝わることを切望するものです。たった一人でも構わない。他の人にどれだけ誤解されようが、その一人に、「あなた」という宛先に送るような歌。ラブレターさ。破って捨てられてりゃ悲しくもなる。「わたし」から「あなた」へ送る「この歌」の三者が他の何とも変えられない、それぞれの特殊性に対する尊重と強烈な肯定こそが歌をリアルにするのでしょう。

おわりに

 以上でフェイクソングとリアルソングとを区別してみました。ですが実は、どんな歌もリアルソングになりえます。ある歌を口ずさむ。そのとき、「この人にこの歌を通じて自分はこれを伝えたい」と思う情熱こそが、それをリアルにするのでしょう。一言一句にこもる魂の存否こそが重要です。

 我々のリリース予定のリアルソング「DEATH!DEATH!です。」が、あなたにとってもリアルソングになりますように。どうか、魂の耳を澄ませてお待ちください。