Amezariz Blog

アイドルプロジェクト「アメザリズ」の公式ブログです。

創造的誤読のすすめ

今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。衝撃の事実発覚。どうやら俺の書く文章、人に伝わってないらしい。アメザリズメンバーにも伝わってないってマジぃ!?

 ということで、今回の記事では、この「伝わらなさ」の意義を考えます。「どうして伝わらないんだ」とか「どうやったら伝わるんだろうか」とか小難しいこと考えるのは後回し。またいつか。

テクスト解釈の間主観性

言語共同体というフィクション

 我々が何らかの対象を認識するときには概念を通じた理解が伴います。「りんご」という概念を知らずとも、「赤い、丸い、ツヤツヤしたなにか」といったように、既存の概念を組み合わせるなどしながら言語化することで我々は世界を分節化している。そして諸々の概念は、一応は共同体の内部で共有されたものと推定されています(こうした推定がはたらく範囲のことを言語共同体と呼ぶのかもしれません)。

 我々が言語表現を行うとき、言語共同体に「流通」していると思われる概念に基づく。以下、表現されたものを「テクスト」と呼ぶことにしましょう。

 さて、反対にテクストを理解しようとするとき、言語共同体の一応性、嘘臭さが露呈することがあります。というのも、単語レベルでさえ、我々には諸々の概念に対する個人的な「思い入れ」のようなものが存在し、その概念に触れた際には半自動的に「思い入れ」も呼び起こされてしまうからです。各々がこれまでにしてきた言語ゲームにおけるプレイ履歴を反映するとか言っとけばそれっぽいか?

 こうした「思い入れ」の内容は、個々人の人生経験等によって異なります。たとえば「血」や「タバコ」「ドブネズミ」といった概念を挙げればわかるでしょうか。それゆえ、テクストの書き手と読み手との間、読み手と読み手との間でも、ある概念についての思い入れを共有していないのが普通ということですね。ましてやインターネット。生活形式を共有していない。

テクスト解釈において何をしているか

 こうした「思い入れ」によって、テクストに登場する概念の解釈も異なるのが自然です。他方、我々が学校の現代文でやらされたのは、自らの「思い入れ」を極力排したうえでテクストの理解をしろという訓練です。不自然、ゆえに知的。

 こうした不自然な解釈により、我々はある程度共通した内容の解釈を得ることができます。ある時点で存在を推定されているにすぎない言語共同体における、間主観的な承認を期待できる解釈。要するに、「みんなもそう解釈するだろう」との期待が合理的といえるかどうかは、自身の具体的経験からくる思い入れによる解釈内容に対する影響の少なさによって(も)測られることになります。

 なお、間主観性ある解釈を得るためには、読者は読者であればよいのであって、その人自身であることは不要どころか有害とされます。

創造的誤読へ

 以上を踏まえ、おにぎり(光)の文章が伝わらないことの意義を考えましょう。先に言いたいのは、「俺の文章は評論文じゃねえし、現代文の試験に出るわけでもない。間主観性なんて考えなくても誰も困らない。だから、あなただけのやり方で解釈してほしい」です。

 前述したように、間主観性なんて考え始めると、これを読んでくれているあなたがあなたである必要がなくなってしまう。

 そもそも言語共同体なんてのが既に存在し、さらにその規則が一意的かつ不変とするところから相当マヤカシくさいのです。だったら、こっそりその規則とやらをあなたの「思い入れ」込みの、新たな解釈と新たな表現とで覆してやれば良い。それは誤読とされるものかもしれませんが、たしかに創造的な活動です。ちなみに、一次創作物に対する二次創作という営みもこの意味で創造的活動といえるでしょう。

 手元の、現実の言語ゲームでのある表現の解釈につき、間主観性があるかどうか考えるために立ち止まるよりも、次のプレイを始めましょう。語の意味はその使用にこそあるとか誰かが言ってた気がするし。誰も黙らなくて良い。とはいえ、俺の意図とあまりに違う読みだったときに、「おにぎり(光)はこう言ってた!」みたいにするのはまた別の問題だからな!「私はこう読んだ!」で頼みます。

 私が伝えたいことはたしかにありますが、それを受けとるか、あるいは、もっと別のものを受けとるかはあなたの自由です。あなたが何かを受け取ってくださるきっかけになるなら、それだけで書いた価値があります。

そして思い出す

 思い出した、これアメザリズブログだった。……ということでね!我々アメザリズの日頃のSNSの発信や、そしてザリガニョンズの歌や動画等のテクストを、あなただけのやり方で解釈してくださること、そしてその解釈に基づいて何かを表現くださることを祈っています!!!!