Amezariz Blog

アイドルプロジェクト「アメザリズ」の公式ブログです。

「生きる意味」って何だよ(哲学)

 今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。意味不明、またはそもそも無意味な文章垂れ流しがち。そりゃ☆ゼロにもなるわ。糖質とかカロリーとかじゃねえんだからやたらめったらゼロにしてもなぁ。せめて意味ぐらいはゼロでないと言いたいね。

 ってことで今回は、意味について。しかも誰にとっても避けられないアレの意味、すなわち「生きることの意味」を考えてみよう……とはならないのが天の邪鬼の俺。

 だって、生きることに対して「それって意味あるの?(反語)」と問うことに意味あるのかって思っちゃうんだもん。誰やお前ともなるし。そうさ、今回もタイトル詐欺さ!

はじめに

 タイトル詐欺宣言が済んだところで、読者の皆様は「じゃあ何を書くんだよ」と思われていることでしょう。珍しく答えましょう。「我々はそれぞれがそれぞれの意味を生きているのであって、生きていること一般の意味を問うことに意味はない」ということを、いつもの手口を使いつつそれっぽく書きます。よろしくゥ!頼むぞアンチクライマックス法

誰が「生きる意味」を問うのか

愚問性

 世界には「愚問」とされる問いがあります。そのなかには、「その問いに答えが与えられたところで、問いが発される前と後とでは何の変化ももたらさないであろう問い」が含まれるといえるのではないでしょうか。言い換えれば、「その問いの解決を通じて、問う者はその後何をしたいのか」が明らかでないような問いを愚問と呼ぶことができるでしょう。

 「『生きる意味』って何だよ」と問う者は、それを問うことを通じて「生きる意味」一般についての答えを得たいのでしょうか。そうだ、という方もいらっしゃるでしょうが、多くの場合は「ほかでもないこの自分が生きる意味の存否や内容を知りたい」という動機があって発されるのではないか。それなのに、一般論的な答えを得たところで、この動機に対する直接の答えには必ずしも結び付きません。

 たとえば、「タバコの健康被害について」を知ったところで、喫煙者はその一般論を知ったうえで、その一般論の外部にある具体的、つまり自身にしかアクセスできないものを自身なりに評価して喫煙続行または禁煙を選択するでしょう。

 このように、一般論は、判断材料の一つにはなりえても具体的問いの結論には直結しません。「この自分がどうするか」という問いに対しては、一般論的問いはその程度のインパクトしか持たない。むしろ、一般論的問いへの答えは、問う者自身にとって具体性のある別の問いとの関連においてはじめて効力を持ちうる

 話を元に戻すと、「生きる意味とは何か」という問いは、それを問う者の「ほかでもないこの自分の生きる意味とは何か」に関連づけられない限りナンセンスな問いです。俺もゲンガク的問いは嫌いじゃないけどね。

ある人にとっての「生きる意味」

 では、「ほかでもないこの自分が生きる意味」を問うとき、その人には何が起こっているのか。そもそも、「ほかでもないこの自分」の今及び未来の生き方が本人にとって不明確となっている状態でなければ、こうした疑問を抱く余地はありません。

 そして、我々は自身に対するこうしたイメージを含め、「自分」についての物語を都度語ることで自己概念を形成する存在です。これまでの自分がしてきた経験を想起し、それぞれの経験に重み付けを与え、再構成する。そうして得られる自己のイメージが自己概念です。

 そうだとすると、ある人が自身の生きる意味を問うのは、自身の自己概念に不安が生じているから、と言ってしまってよいのではないでしょうか。これまでしてきた物語にうまくなじまない経験が生じたとき、既存の物語の「改訂」の必要が生まれ、結果「これから先の展開をどうしようか」と頭を抱えている状態。

not生きる意味,but意味を生きる

 以上、自身の生きる意味を問う者は自身が今後行う自己についての物語の方針に迷っていることが明らかにされました。では、自己概念の形成を通じて、我々は何を行い、または行おうとしているのか

 それは、自己概念という物語のなかで、日々の経験に、その物語上の意味を付与することです。たとえば、「間違わない自分」という物語にとって、あるミスの発生は物語上許されないものであるのに対し、他の場合には大した意味を持ち得ない。すなわち、我々は生きる意味につき、それぞれの物語にとっての意味を生きる(経験する)ことを通じて確信を得たり反証された気分になったりしている。

 ある出来事につき、特定の自己概念のあり方と関連づけた意味を見いだすことが「経験」であり、通常、その経験の仕方は疑問視されません。出来事に対する態度、前提を作り経験を色づけるのが物語の方針についての構想であって、その物語の方針のあり方が意識されるのは、その方針での出来事の処理に困難が生じたときぐらいのものです(鼻づまりのときぐらいにしか自分の鼻の通りや鼻の機能を意識しないように)。出来事の「意義」や「意味」は、こうした物語の文脈に位置付けられることではじめて付与され(経験され)るものです。

 言ってしまえば、いつの間にか形成された自己概念のあり方に適合的に出来事を経験しているのが通常の状態です。この状態を「意味を生きる」状態としましょう。反対に、これまでの自己概念ではうまく処理できない出来事が発生したとき、それを経験に変えよう、何らかの物語上意味のあるものとして捉えようとするとき、我々は「生きる意味」(自己概念そのもののあり方)を問う。

問いの解消

 ところで、生きる意味を問うとき、あることが前提されていることに注意しなければなりません。そこには、出来事を経験し続けるための方針についての問いであることが前提されています。言い換えれば、これから自分が意味を生きるための問いを発している。物語は続く。だがその方針が決まっていない。

 生き(続け)ることは約束されていて、どのように生きるかに迷っているともいえるでしょう。そんなときに、「生きる意味」一般を問い、下手したらこの前提に反する答えを得たところで何も変わらないわけです。愚問ですね。

 さらに、物語を構成する諸々の出来事は、まさにその人の来歴に依存する独自性のあるものであるはずです。それらを総括する物語のなかで意味を生きるためには、一般論なんざ聞いてる暇はありません。あなたの人生のエアプしかしてない奴がなんか言ってるだけです。もちろんこの記事も

 なんのことはなく、生きることが決まってるならまず生きてみりゃよいわけです。その時点ではあなた自身でさえ、そこから先の人生についてエアプでしかないわけですから。物語、自己概念なんて気がついたらついてくるもんです。

 語るためにはまず語られるものがなくてはならない。今ある材料で語れないなら、材料を増やしに行きましょう。クックパッドを眺めていようが料理は完成しないし、実際に作るにあたっては在り合わせで間に合わせたり、間に合わなきゃ後日材料を買いにいくでしょう。あるものはあるし、ないものはない。ないならないでなんとかしましょうや。

おわりに

 さて、どうやってアメザリズとかザリガニョンズとかを絡めようかな。……せや!以上、生きる意味を問うとき我々は次の一歩の方向性を決める指針である物語を求めている、ということでした。しかし、それを求めるべき先は自己ではなく、しかも語り手としての自己ではなく生きる者としての、これから行動をする自己であることが確認されました。

 誰かを参考にすること。それが必要なこともあるでしょう。誰しもが互いに異なる自己という物語を引き受け、実際に生きているという点では共通しているし、見習うべきと思うことは見習えば良い。しかし、特定の誰かに憧れという名で盲目的に追従しようとするなら、あるいは同一化しようとするなら、それぞれの自己の固有性の無視ないし軽視(それは憧れるほうはもちろん、憧れられるほうの固有性をも軽んじること)になります。

 この意味での憧れはやめなければなりません。たぶんこんなことを大谷翔平も言うてた。

 さて、『DEATH!DEATH!です。』の歌詞を一部引用してこの記事を〆ましょう。

憧れるのはやめろ

お前の安い物真似で汚すこと許さない