Amezariz Blog

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SNSって何だよ(哲学)

今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。地図アプリ開いて旅行した気分になりがち。心ここにあらず。かといってどこにいるかもわからん、メンタル迷子。

はじめに

 さて今回は、ソーシャルネットワーキングサービス、略称「SNS」とよばれるサイバースペースで人々が何をしているのかについて考えてみましょう。はじめに言うと定義や意味を明らかにしそうなタイトルは詐欺です。「ゆうパックで現金送れ」と同じカテゴリー。

 SNSでは日々、市井の人々が何らかの情報を発信・受信し、ときにユーザー同士として交流をしながら繋がりを形成・維持・発展させています。それぞれのユーザーたちが、いかなる目的でSNSを利用しているのかはわかりません。本人に聞かないと、あるいは本人でもわからないかもしれない。たしかに、ふるまいを手段と位置付け、逆算してそれを最もうまく説明できる目的を措定することもできます。しかし、それは「モデル」でしかありえないですし、人が合目的的にふるまうという前提からして相当怪しいもんです。

 そこで、今回の記事では発想の転換を行います。すなわち、「何のためにSNSをやるのか」という問いから、「SNSが一切の目的に対し合目的性を欠くとして、それでもSNSをするとしたらなぜか?」という問いへの転換。後者の問いへの応答を試みるのが本記事です。ってことでよろしくゥ!

無用の用

無用の用とは

 さてさて、本記事は目的一般に訴えてSNS利用を説明することは許されません。問題設定の時点でなかなかの綱渡りをしてしまいました。面倒な話です。結論決めずに書き始めるからこんなことになるわけだよ。ったくよぉこんなとき、便利な言葉が「無用の用」です。無用の用とは、役に立たないとされているものが、かえって役に立つことがあることを言います。今回の記事のために作られたかのような言葉ですね。

 この「無用の用」を、本記事の関心に沿って再記述するなら、「利用に先立つ目的には適合的ではなくとも、それでもなお何らかの意義があること」といえるでしょう。なお、目的とは、得られるであろうと予期される帰結のうち、事前に望ましいと評価されるものを言います。それは常に将来に関する見立てであり、実際の帰結に先立つ観念です。

無用の用の条件

 はい、「無用の用」と「目的」のそれぞれの規約的定義も終えました。このことによって、「無用の用」につき、目的適合性(の不存在)の観点から考察する準備ができたわけです。

 第一に、「無用」というには、すなわち「目的に適合的でない」というには目的がなければなりません。そのうえで、その目的(の成否)とは独立して意義があるといえる場合に「無用の用」は成立する。

 第二に、目的の特定に伴い、行為(群)の帰結には目的外のものも含まれるかたちで予期がなされるわけですが、その予期された諸帰結からも「無用の用」は独立していなければなりません。ある存在やある行為につき「第一の目的にはつながらなかったけど、保険的にこんなものが得られる想定をしていて、実際に手にいれることに役に立ったからOK」といえてしまうなら、その「保険的」なものも「目的」の一部となるからです。

 この二点、要するに、予測への裏切りが「無用の用」の勘所であることを示しています。誰だって予測する。そしてその予測はどれほど精緻になされても、その帰結についての確率的なものに止まります。帰結を確定させるのは実行であり、さらに意図せざる帰結、予期されなかった結果が生じることもある。「予測」には予測それ自体が未来という他者を扱うという本質的な欠陥と、それを行う人間の想像力の有限性に付随する不足が常について回ります

SNSと無用の用

SNSの場所性

 以上、「無用の用」についてのお話でした。次に、主題でもあるSNSと「無用の用」との関係性について論じます。

 そもそも、SNSは「場」を提供するサービスであり、その「場」においてユーザーが何をするかについてはオープンにされているものが多いでしょう。「~してはならない」という禁止事項はある程度設けられていても、「~しろ」と特定の行為を積極的に命じられることはない。基本的にはどんな目的で、どんなことをしようが自由です。

 しかし一方、「ソーシャルネットワーキングサービス」という語義によっても示されているように、SNSは、その「場」において他者との繋がりが生起することも念頭に置かれています。考えてみれば当然で、「他者」を必要としないならば私秘的な日記にでも書いてりゃ良いわけです。翻って、開かれた「場」で行為する以上は、個々のアクターの主観によらず他者に影響を及ぼしあうわけですね。

 ここに、SNSの利用の条件に他者との相互作用が含まれることが前提されるわけです。このことは、他者との相互作用をある人が目的にしているか否かを問わずSNSに当てはまる。ひいては通常の生活でもそうでしょうが。

他者と「無用の用」

 SNSで相互作用の当事者となる他者は、しかしながら、予測不可能性の権化です。他者のあり方を予め予測しきることは不可能だし、ましてや相互作用をするにあたっては「とき」のような第三の要素も関わってくる。しかも自他ともに通時的に同一性を完全に維持するわけでもない。

 そうだとすると、仮にある一人のユーザーが特定の目的をもってSNS運用をはじめたとしても、その目的に内包される予測そのものが必ずしも的中するとは限りません(遂行的な予測はまだマシかもしれません。ただし、自己成就可能なものは、前述の通りSNSという他者の介在する「場」にとってはむしろ例外的です)。というか、むしろ外れるのが普通です。言ってしまえば、SNSは「無用」が宿命づけられている

 さて、裏切りのみが約束された場所、SNSをなぜ我々は利用するのか。期待したものは何もない。そこに存在するのは「場」と、わけのわからぬ他者だけです。「ともだち」なんかを見つけるために来てもそんな名札をつけた誰かがいるわけではありません。友だちは作るもんやなくて、なってるもんやしなり続けるもんやろ。気の合いそうな奴だけで集まってても世界は広がらんぞ。合いそうにない奴とも会ってみて喧嘩したり仲良くなったりするからおもろいんやろ。聞いてるか某SNS。

 しかし、この他者の「わけのわからなさ」こそが人間の可能性を示唆するものではないでしょうか。自分の予測を裏切り、そしてときに越えてくる存在としての人間です。自分の手持ちの尺度を見つめ直し、わけのわからないものを理解しようとし、そして裏切られるし裏切る。稀に期待に応えたり応えられたりする。それの繰り返しです(皮肉にも、「常に裏切る」はひとつの信頼になってしまい、予測可能性を担保してしまいます)。予測通りになるものしかなかったら、予測が済んだらそこから先全く面白くないですしね。

 要するに、SNSにおける他者の「わけのわからなさ」に一回一回驚いたり、喜んだり、怒ったり、ときに笑ったりするしかないわけです。どうせならヘラヘラしとくほうがいいかもしんない目的論的には大失敗。それでも結果論として「人間って面白いな」と思えればむしろ目的に縛られない、何か大事なものも手にはいるってもんかもしれません。知らんけど。

 ちょっとだけ、自分を壊す場所。壊れてはじめて強くなるものもあります。そう、筋肉ですその破壊と再生は、「出会い」と呼ぶには激しすぎる他者との衝突から始まるのかもしれません。SNSのもたらすこうした出会いが、「無用の用」と呼べる意義でしょう。何が起こるか分からないからこその意義。でも、これは何かが起こりそうな予感がしてもうたまらないのさ。一昔前なら物理的にすれ違うことすらありえなかった遠くの人と繋がれる。その繋がりが何をもたらすかは予め誰も知る由もない。振り返ったときにはじめて見る景色ってものもある。素敵じゃないですか。オラわくわくすっぞ。

おわりに~脱皮をしよう

 こうした自分壊しのきっかけとなる理解不可能な他者に囲まれたSNSというデジタルワンダーランド。しかし、こうした出会いの場はSNSに限られません。この世界をもっと広く見るための理解不可能な他者、ウチにもいます。え?「またステマか」って?その通り。耳から摂取するリリカル他者、『DEATH!DEATH!です。』の宣伝です。

 「無理矢理にもほどがある。もっと丁寧に我田引水しろ?」という声なき声も聴こえてきますね。そのリクエスト、応えましょう。『DEATH!DEATH!です。』を歌うザリガニョンズのキャッチコピーは「脱皮をしよう」「皮を剥げ」です。我が身を危険に晒してこそ強くなれる。予測不可能な他者、「泥水をすすれ」だのというわけのわからない歌詞をぶつけてくる音楽的戦闘集団との出会いが、あなたをもっと強くしてくれるはずです。大丈夫、きっとあなたの予測や理解を拒絶してくれる。約束しましょう、置き去りにする、と。

 (ちなみに書いてる俺もこんなこと書くと思って書き始めてなかった。内なる他者にコンニチハ。メンタル迷子になった甲斐もあったってもんさ。)