Amezariz Blog

アイドルプロジェクト「アメザリズ」の公式ブログです。

私って何だよ(哲学)

今日も元気におかわり無料、どうもおにぎり(光)です。アメザリズメンバー内では特級呪物とも呼ばれる存在。俺のことを一体何だと思ってるんだ。まあ心当たりがないではないが。

はじめに

 とかなんとか言ってますが、俺自身が俺が一体何なのかもわかってません。というか、それは本来、説明するものでもされるものでもないでしょう。どんな物語を生きるかは俺の勝手ですが、その物語自体も書き換えは可能だという話は以前しました。「自分」というタイトルの物語において特定の役割を果たす者、「主人公」をそれぞれが一人称で指しているってのが大体のところでしょう。

 ところが、この考え方は、物語の語り手(書き手)としての「私」と、描かれる対象であると同時に、意味を生きる主人公でもある「私」との区別があり、後者を機能的に記述するものにすぎません(大体のことは以前の記事参照)。そこでは、「では、語り手としての「私」はどこからやってくるのか?」という問いには何ら答えていません。今回は、未解決にしていたこの問いへの応答をしてみましょう。以下では、断りのない限り、「私」は語り手・書き手としての自己を指すものとします。クソ長いうえに小難しいけどちゃんとザリガニョンズの話に無理くり結びつけるから読んでください。

言語という他者と自己の適応

 「またゲンゴかよォ」という声が聞こえてくるかもしれませんが、言語による「物語」を語る私は、言語を欠いては存在しえないものです。我々は、特定の言語が用いられる環境に生まれ落ち、強制的にその言語慣習に適応させられます。「絶対的他者」である言語をインストールし、自身の内部においてそれを運用する実践に否応なく参加させられる。暴力的といってよいほどの強引さで。

 この「適応」の過程は意識的になされないのが普通です。少なくとも「話す」「聞く」に関して、「よぉし!自分は母語とされるこの言語を話したり聞けたりするように今日から勉強するぞ!」なんて決意して習得した人はいないでしょう(なぜならこのような言語による思考ができている時点で、その言語を習得してしまっているからです)。その後、より言語共同体における規則やそのバリエーションに習熟することはあっても、そこに「参加」すること、できることは我々の意識的選択によるものではありません。

 このようにして我々は無意識に、「何かを語る」を運命づけられる。そしてその「何か」に自己が投入されるとき、私が誕生するわけですね。なお、この代入でさえ言語インストール後無意識に行われる操作であり、だからこそ機能不全のときにのみ語り手としての私に関し「どのように物語るか」という問いに直面する。

 要するに、生まれ落ち、わちゃわちゃわけのわからない音声のシャワー(言語)を浴びせ続けられ、一人称を用いて語り始めるとき各自が私になるわけです。他者(言語)に遅れた存在として自己はやってくる。ヒーローが遅れてやってくるように?

 言語における一人称を(適切に)用いることこそが主体として存在することであって、言語に先行する主体が一人称で指示されるわけではありません。もっといえば、一人称で指されるようになる主体は、他者からの固有名における呼び掛けや二人称での指示によって先に輪郭めいたものが与えられている(自己を指して「◯◯(名前)ちゃん」と称する幼児は、周囲からの呼び掛けにおける音の響きとそれにより意味されるものとの対応関係を学んだ結果そうしているのであって、それは「一人称」として引き受けることには先行する現象でしょう)。

「言語以前」?

 さて、以上で「はじめにロゴス(言語)ありき」的なことを言ってきたわけですが、「言語習得前にだって赤ん坊は赤ん坊として物理的・生物学的には存在しているではないか」との指摘がなされうると思われます。この指摘はごもっともです。しかし、この記事における「私」は、語る主体としての「私」であり、むしろ、語る主体となったとき、その主体の存在が「私」として言語の世界に位置を得るというのが上記の趣旨です。言語を用いることを本質とする存在は、言語なくして存在しえない。

 しかし、赤ん坊等、言語の習得をしていない者もまた、言語とは異なる原理に則って活動しているのも事実です。しかし、それは言語の世界への適応の結果、不可逆的に変更を受けます。言語のない世界につき、言語に慣れきった私たちには、その思考において言語を用いる以上は想像が及びません(「言語」を「スマホ」といった身近なテクノロジーに読み替えるとわかりやすいかもしれません)。その世界は「語り得ぬもの」であって、そもそも語ることに適した対象ではないわけです(それを「語りうる」と思われるならば言語による変化を受けていないというのではなく、むしろ言語によって語りうるものしか我々は想像しえないことの証左ではないでしょうか)。

ヒューマンバグ?

 ところがぎっちょん、言語をインストールしたぐらいでは消えない部分、あるいはインストールした言語をうまく機能させない部分を、生き物としてのヒトは持っているのも事実でしょう。ハードとしてのヒトは、別に言語インストールを前提としているわけではなく、歴史の過程において偶然に言語を手にしたにすぎないからです。すなわち、ヒトの個体に言語がインストールされ「私」が誕生する一方、ヒトとしての在り方が「私」に還元されるわけではない。「私」を欠くかたちでも動物、生物としての個体の「ヒト」は当たり前に心臓を動かし活動を続けます。

 言語インストールの暴力性と、生物としての有機的な存在の仕方との間には緊張関係があり、これらは必ずしも調和しません。だからこそ、言語で語りうるはずの思考を「無意識」と呼ばれる領域に抑圧し、結果として生存に不利なことが起こることもあるでしょう。そもそも「意識」自体が言語運用における責任の帰属先として要請される、まさに言語上の構築物なわけで、それは「私」と一致するものと観念されているように思われます。

 こうした「不調和」の具体的態様は、ヒトとしての個体における先天的要素や来歴に依存することでしょう。その結果、言語インストールによって生じるキズも個体によってまちまちということになります。この「キズ」こそが、「私」をもった、あるヒトの個体における固有性を示すものなのかもしれません。「私」なくしては(つまり言語なくしては)生じえなかった個体としての独特の傷跡。この「キズ」を我々一人ひとりが「私」としてではなく「ヒト」として持っています。それぞれの仕方でキズがついているし、もはや元には戻らない(し、戻すべきでもない)。

 それは(言語習得後の)ヒトとしての活動の仕方や「私」が変わればそのかたちも変わるキズでしょう。しかもそれは言語化された途端に見えない場所へと移動する。それでも、「キズがあること」は一生変わりません。言語(「私」の語りうるもの)と個体(「私」を除く、語り得ぬもの)との間の緊張関係は解消されえないからです。その在り方が変わり続けるだけ。

「私」の誕生は悲劇か?

 さて、「私」が誕生するプロセスを紹介するとともに、生物的個体としてはそれが後戻りできないキズをもたらすものであることを説明しました。語りうる我々は、これを前提に生きていくしかないわけです。

 このように書くと、一見すると悲劇的に読まれるかもしれません。しかし、私たちはそれぞれ、固有のキズをもった、言い換えればキズのかたちや位置においてかけがえのない存在ともいえます。他に同じキズを持つ者はいませんし、大体みんな無傷ではありません。誰しもがハートにキズがあるもんよ。

 しかし、そのキズの固有性にあぐらをかいても「そりゃお前だけだろうけどさ、こっちだってこっちだけのキズがあるってもんだ」という話で、下手すると不幸自慢になってしまいます。そうではなく、「自分のキズは消えない。他の誰とも違うキズを背負いながら、それでも進むなら、きっと他の誰とも違う、キズではない何かと出逢えるかもしれない」との希望を指し示します。「万人向け」の道具にすぎない言語(と、その産物にすぎない「私」)では表現できない何かをもたらすものとの遭遇。それは「その人だけのキズ」を引き受けてしか期待できません。陳腐な言葉を使うなら、それがそのヒト個体(ただし言語獲得後の)にだけの「幸せ」なのかもしれません。その在り方はヒトそれぞれ。ヒトにはヒトの乳酸菌。

おわりに

 さぁ!!!お待ちかね(?)牽強付会タイムがやってきました!!!以上の話、読んでない方は「言語獲得したら言語っていう型に嵌められるけど、生き物としてはそんな型に嵌まりきれねえよな!はみ出し方で個性出ちゃうわwそれでも行こう!!!たとえ胸のキズが痛んでも~♪」だけ押さえといてください。「何が君の幸せ、何をして喜ぶ?」まで思い浮かんだ人は天才。

 はいここで『DEATH!DEATH!です。』の歌詞一部引用!手慣れたもんや。さっきアンパンマン引用してしもたけど。

唯一無二の君に 自分だけの最高を手に入れる努力をしろ

 さらにさらに!!!MVもやっと公開!!!!!ビジュアル面でももしかすると、この記事のような視点でみると面白いかもしれませんね。ついでに、紹介していない、歌詞の他の部分も……?

 とにかく、MVも(は?)ゼッテェみてくれよな!!


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